20200814 のえまる備忘録

8月定期更新回ののえまるを読んで受けた衝撃をどうしても言葉にしたい、残しておきたいと思い、今まで避けてきたブログについに手を出しました。

まずは名脇役のことについて書き、余力があればのえまるの他のパートやのえぱらについても触れられたらと思います。

なんせ今は、お盆休み最終日の午後。明日からは平常通りの5連勤が待っています。明日の自分の負担にはならぬよう、ゆるりと、でも時間の許す限りまとめていけたらと。

 

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それでは早速本題に!

※私はのえぱらで「名脇役」を初めて聴きました。そのため、如恵留くんのコンセプトに基づいて演出された世界で初めてこの曲に触れました。

 

まずは、のえぱらで受けた印象とわたしなりの解釈から。

観ているときは、なんて切ない歌詞とメロディーなんだろう!とひたすらに苦しく、でもこの時間が続けばいいのに…とも思っていました。檜山くんがあまり切なそうじゃなく、むしろ楽しそう、明日への希望に満ちてわくわくしているような、胸の高鳴りさえも感じさせるようなコンテンポラリーダンスを舞っているのに、歌っている如恵留くんはとても苦しそうで、もどかしそうで、切なそうで。檜山くんが、如恵留くんからは距離を置いた場所で演じていたことも気になりました。(ここでこの話題を出すのも野暮な気がしますが、ソーシャルディスタンスを考慮しても、十分すぎるくらい距離を取っていたと思います)1番ではステージ中央に如恵留くん、下手側に檜山くん。如恵留くんがステージ奥にいて、青木くんに背後から語り掛けるイメージ。2番では青木くんが階段上で舞い、如恵留くんは上手側から見上げるように歌う。1番では同じ舞台上の同じ高さにいて、距離こそ離れてはいるものの手を伸ばして歩み寄れば届く位置にいた二者が、2番では距離が広がり、高さも異なる場所に居るようになってしまった様子を見て、一視聴者のわたしがした解釈は以下の3通りです。

①如恵留くんを歌詞の「僕」、檜山くんを「君」として、何らかのきっかけで恋焦がれている人との関係が変化した、距離感が遠くなったことを暗示している。ありがちな発想ですが、「君」にとって「僕」以上に近しい存在が現れた、といった状況でしょうか。

②如恵留くんも檜山くんも「僕」で、如恵留くんは葛藤を繰り返して苦しむ内面の部分を、檜山くんは友達の肩書を背負って「君」に近いところで日々接している部分(「君」に認識されている「僕」像と言いますか)を表現している。2番で距離が広がったのは、年月と共に自分の本心に気づき、内面と外面の乖離が広がっていった様子を暗示。

③如恵留くんも檜山くんも「僕」で、檜山くんは過去の、如恵留くんは現在の「僕」を演じている。如恵留くんが檜山くんに切なそうな眼差しを向けるのは、「こんな苦しみ、知りたくなかった...過去の、ただただ楽しさだけを享受していた頃が懐かしい、戻りたい」という気持ちがあるから。

そんなふたりを上手側で伴奏とともに見守る青木くん。最後だけは、如恵留くんもピアノに触れ、青木くんと音を奏でます。

つかの間のセッションですが、如恵留くんと青木くんの世界が重なっているところが、青木くんはただ伴奏するためだけではなく、他の役割も背負ってステージにいたんだと、想像を掻き立てられるような素敵な演出だったと思います。

青木くんは、苦しむ「僕」を一歩引いたところから見守る親友か、家族か、それとも数年後の「僕」かは決めつけたくないですが、ともかく「僕」の生きる世界に存在する者だろうな…と思いました。

ここまで、わたしがステージを観てぼんやりを抱いていた印象・解釈を何とか言語化してみました。のえまるや、他のファンの方のブログを読んだ後ですが、それに引きずられすぎないように、感じたことを素直に書き出してみました。(約1,500字。ふー。)

 

さて、ここでもう一度例ののえまるを読み直してみます。

まず、檜山くんの役の解釈の幅がバラエティーに富んでいること!あんまり引用しても文章が冗長になってしまう(のえまるは有料配信なので引用しすぎてもな、というのもあります)ので割愛しますが、あのひとりの役にそれだけ多様な立場、考え、状況を盛り込める想像力や優しさは特筆すべきものがあります。私は檜山くんの表現からポジティブさを主に感じていましたが、確かに負の感情を抱えて、蓋をしながら明るく振る舞うことだってあるよなあと思いました...むしろ年齢を重ねるほどに、恋愛に限らず、人間関係を円滑に進めようと意識して、自分の意とは反して明るく振る舞う場面って増える気がします。

それから、設定例のひとつとして挙げられていた「恋を出来ない自分が~」という表現がすごく引っ掛かったんですね。ここだけは引用したい。恋をする・しないではなく、できる・できないと認識する方がいるんだなとハッとさせられました。

わたしはあまりしっかり多様な性や考え方について勉強したわけではありませんが、他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティの方がいることは知識として持っていました。そういう方がこの曲を聴いたり、ステージを観たりしたときに、如恵留くんいわく「誰も取り残さない」演出に救われたら...と想像すると、この演出意図や、自らそんな演出を考案するアイドルがいるということがもっと広まればいいのに...と思わずにはいられません。

それから、わたしは曲中の青木くんを見守り役だと解釈しましたが、のえまるには「この世界線に存在しているのか、いないのか、意味を作っているかどうかすら不透明」という解釈の余地を残した設定にしたとありました。

青木くんの役につい意味を持たせたくなっていましたが、そもそも意味があるのか?とていう、さらに掘り下げられた問いを投げかけられて、もはやアイドルのステージを考察するオタクではなく人生の意味を問う哲学者になったような気分...何歳も違わない貴方のその思考の深さに追いつきたいです...

そして、のえまるを読んで新たに一点気になったのは如恵留くんが表現していたのはどんな立場・考えの存在だったのか?ということ。のえまるには「オーソドックスな演出」として、想いを寄せる人に向けて歌う役割として記述はありましたが、それ以外にもあるんじゃないの...?とすっかり深読み癖がついた今なら思います。あんなに切なそうなんだもん、内面にはただならぬ感情の渦があるはずだと思う一方、その存在の意味を問うところがスタート地点なのかもなと思うところもあり。曲を聴きながら、もう一度じっくり考えを巡らせてみようと思います。

のえまるには細かく示してくれていましたが、性別の設定については、正直ほとんど気になりませんでした。そういう既存の枠組みに対してフラットな如恵留くんの演出だから、という前提もあったように思いますが、檜山くん、如恵留くん、青木くんの表現が、そんな枠組みを吹き飛ばすぐらい素晴らしくて、引き込まれるようなものだったからかもしれません。それに加えて、表現している苦しみや切なさ、希望などの感情は性別関係なく生きている限り誰にでも直面しうるものだったから、というのも理由になるかなと思います。

わたしも常々、生まれ持った性別で、性別関係なくできることまで(世の中の慣例に倣うと)できなくなるのは何だかなあ…と思っているので、男性らしさや女性らしさを強調されがちなアイドルの世界で「性別で人生縛られるは切ない、遣る瀬無いし自分で選んでいいんだ!」と言い切れる人がいることをとっても希望に思いました。

 

さて、ここまではのえぱらとのえまるに関する話でした。のえまるを読んでいるとはいえ、一個人の解釈ということは念押ししておきます!

 

ここからは、原曲を聴き歌詞を読んで考えたことをメモしておきます。

前述のとおり、わたしはのえぱらを経てから原曲を聴きました。原曲もとても気に入っていて、つい何度も聴いてしまいます。ふうまくんの歌い方がすごく刺さる。

2番のAメロで、君=女の子ということが明かされており、「僕」の性別を男性と解釈するなら男女の恋愛感情(男性目線からのモノローグ)と読めるでしょう。ですが、それ以外で歌われている感情は、自分及び恋愛対象の性別に関わらず、普遍的なものだと思うので、性別設定にとらわれすぎる必要もないのでは?とわたしは思います。

”もしも「親友に抱く感情が好きに近い」が本当だとすれば 君は僕を” この部分がとても秀逸だと思いました。これってすごく微妙で曖昧な感情な気がします。当の本人だってちゃんと把握していない可能性もある(だから無邪気に「どうしたの?」って聞けちゃう)。他者が指摘することで、本人が初めて自覚する可能性も大いにある。「親友」とひとことで言えど、相手とこれまで積み重ねてきた出来事や相手への思いによって、「好き」の内容は異なるかもしれない。結局未知な部分が多いため、悩みに悩んで、自分にとって一番望ましい答えを持っておきたい...という逡巡がひしひしと伝わってきて特に苦しくなるな~と聴いていて思いました。「君は僕を」の後に欲しい言葉を続けないところも絶妙に心を乱されましたね...

それから、1番のサビでは「困らせないでよ 苦しくさせないでよ そんな風に優しくすんなよ」って言うのにラストのサビでは「だからもう困らせていてよ 苦しくさせていてよ そんな風に優しくしといてよ」に変化するところも、自分だけ苦しみを抱いて、それを隠してでも想い人の近くに居たいんだという、決意が感じられます。成就すればいいなと思いつつ、でも「君」が「僕」の本心に気づいたら、今まで通りの関係ではなくなるんじゃないだろうかと心配にもなりつつ、つい繰り返して聴いてしまい今に至ります。

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ここまで、ざっと4,000字。のえぱらやのえまるの他のパートには後日触れるとして、この記事は一旦終わらせようと思います。きっかけは1曲の演出だったけれど、固定観念に対して考えの幅を広げるということを教えてくれた如恵留くんに感謝するのはもちろん、自分も「誰もが好きなことを好きと堂々と言える」世の中を作る一員になりたいと思わせてくれたアイドルに出会えたことを嬉しく思います。

 

P.S.「如恵留くん」なんて普段のツイートでは呼ばないからムズムズしちゃった!!のえさんヨシヨシ!!!!!!!